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2019.8.4

有田焼(伊万里)の歴史 History of Arita ware

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磁器の白に呉須の青

 

有田焼とは、佐賀県有田町周辺地域で作られる磁器です。“磁器の白に呉須の青”として、江戸時代初期から現代まで約400年にわたって親しまれ、毎年ゴールデンウィークに行われる『有田陶器市』には100万人以上の人出があり、山里の磁器の町有田が活気にあふれ、大賑わいになることでもよく知られています。

 

 

 

日本のやきもの史において、“奇跡の時代”

 

「17世紀という江戸時代前期の百年間は、伊万里磁器において、いや日本のやきもの史において、“奇跡の時代”と呼ぶにふさわしい時代であった。」「肥前窯は新しい素材である磁器を獲得して技術革新を進め、初期伊万里から古九谷、そして柿右衛門や鍋島、さらに17世紀末には古伊万里金襴手と魅力あふれるスタイルが次々に興隆していった。」

 

書籍『 古伊万里 磁器のパラダイス 青柳恵介 荒川正明 新潮社 2009 』より

 

 

 

有田焼と伊万里焼・古伊万里

 

磁器が有田でつくられ、硬くて丈夫な磁器の器(うつわ)などが流通するようになると、初めは武士階級や裕福な農家や商家などで使用されるだけでしたが、次第に庶民の家庭でも使われるようになってきます。これまで使われていた木をくりぬいて作る木椀や木椀に漆を塗った黒色や朱色の椀に比べれば、取り扱いも便利で食事も楽しく感じられるようになったことでしょうね。

 

このように有田焼は、各地で需要が増して盛んに出荷されるようになり、遠方に出荷する手段として船便が使われましたが、有田地方は現在の佐賀県西部の山間部に位置しているので港がなく、有田地方で焼かれた磁器は有田から約3.5里(り)(約13km)ほど離れた伊万里湾奥の伊万里港(現在の伊万里市)に運ばれて、伊万里港から各地に出荷されていました。

 

また1650年頃からヨーロッパなどへ長崎経由で有田焼が盛んに輸出されましたが、長崎に向けてやはり伊万里港から出荷されています。有田地方で焼成された磁器が伊万里港から出荷されていたので、「有田焼」は「伊万里焼」ともよばれていました。明治時代になると、鉄道で出荷されるようになったこともあり、明治時代以降はそれぞれの産地名がついた名称に変わっています。現在では、「有田」で制作されたものは「有田焼」、「伊万里」で制作されたものは「伊万里焼」の名称になっています。

 

また江戸幕府寛永時代(1626年~1644年)中頃から元禄時代(1688年~1704年)前後につくられたものが古美術品的価値、品質水準が特に高く、古伊万里と総称されています。

 

 

 

日本最初の磁器・有田焼の始まり・・・17世紀前半

 

白磁の純白、染付けの青と白、私たち日本人がずっと長く待ち望んだ白磁や染付の磁器が初めて日本で焼かれたのは、安土桃山時代から江戸時代にかけてです。日本の歴史のなかでも、中世から近世に変わる大きな転換期でもありました。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・1592年)(慶長の役・1597年)の際に出兵した、鍋島藩初代藩主鍋島直茂公は多くの朝鮮人陶工を伴い、現在の佐賀県に帰っています。

 

鍋島藩は、肥前藩・佐賀藩ともいわれ、豊臣秀吉から1590年(天正18年))に豊臣秀吉から肥前国佐賀地方(現在の佐賀県)を受領して、有田は鍋島藩に属していました。多くの陶工が磁器の原料となる磁石(じせき)を探すなかで、徳川幕府2代将軍秀忠の時代・元和(げんな)2年(1616年)に、朝鮮から渡来した陶工のひとり「李参平(り・さんぺい)」が、有田・泉山に磁器の原料となる白磁鉱を発見して有田に磁器窯を築いたと伝えられています。

 

伊万里焼(有田焼)が始められてから1630~1640年代ころまでの染付磁器を初期伊万里と呼んでいます。徳川幕府3代将軍家光の時代、寛永14年(1637年)に鍋島藩が磁器の品質向上と磁器中心の生産体制を構築することを目的として、半農半陶的で廉価な陶器を焼成する窯場を取り潰しています。有田の窯場を13ヵ所に整理統合して、染付磁器中心の生産体制を整えたことにより、染付磁器の量産体制が確立されたといえます。

 

◆染付けとは、白磁の素地に呉須(ごす)と呼ばれる顔料(酸化コバルト)で下絵付け(素地の上に直接絵などの文様を描くこと)して、ガラス質の透明な釉薬(ゆうやく)を施して、1300℃から1350℃の温度で焼いた磁器のことです。呉須で描いた下絵を焼くと藍青色に変わり、染織の藍(あい)染に色彩が似ているのでこの名称がついたと言われます。呉須は江戸時代までは中国から輸入されています。

 

 

 

色絵の誕生・・・1640年頃

 

有田の陶工、酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん)が中国の陶工などから赤絵の技術を学び、1640年ころに日本最初の赤絵を焼成したと伝えられています。有田では窯元や陶工も次第に増え、1640年代には急激に生産量が増え国内で最有力の磁器産地となっています。当時中国では明が滅び、清王朝が建国された動乱の時代であり、多くの磁器の技術者・陶工が国内の動乱から逃れてきたといわれます。この技術者・陶工さんたちの教えもあり、有田の技術革新がすすみ、染付け・色絵の技術を習得したことで、中国の磁器に劣らぬ、薄くてスッキリとした器、美しい染付、色絵磁器の制作が可能になっています。

 

◆色絵とは、白磁などに透明な釉薬を施して1300℃から1350℃の高温で本焼きした磁器に、ガラス質の赤、緑、黄色、紫、藍色の上絵の具で文様を描き、再度低い温度(700〜850℃程度)で焼き付けたものです。赤を主調とするので赤絵ともよばれます。

 

 

 

酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん)

 

中国の陶工などから赤絵の技術を学び、1640年ころに日本最初の赤絵を焼成したと伝えられている酒井田柿右衛門とは、どんな人だったのでしょうか。初代柿右衛門は江戸時代初期の有田の陶工で、進取の気風にあふれた人だったとされます。中国人の陶工から赤絵付けの技術を学び試行錯誤を重ねて赤絵磁器の焼成に初めて成功して陶磁器の発展に大きく貢献しています。柿右衛門さんは、焼成した赤絵磁器を長崎まで持参してオランダ商人や国内の商人に売り込んだ記録が残るなど、当時としては珍しいほどのバイタリティー・行動力のある人だったようです。

 

その作風は伊万里焼・有田焼の柿右衛門様式として確立され、特にヨーロッパで愛好され盛んに輸出されています。柿右衛門様式の磁器がドイツのマイセンの色絵磁器誕生につながったことでもよく知られています。酒井田家は、以後子孫がその様式を継承して柿右衛門を名乗り現在に続いて、作品も柿右衛門と言われています。有田焼創業から400年。15代に渡って柿右衛門というブランド、技術を継承してきたという事実は言葉や文章では表現できないほど素晴らしいことと思います。敬意と有難うございますと記すばかりです。

 

当事者でなければ到底理解できない困難やプレッシャーはどんなであったでしょうか。技術や作品は商品として、時代にフイットしなければ陳腐化して廃れ、時代に置いて行かれます。技術もその時代に対応しなければなりません。伝統の継承とイノベーションの繰り返しが400年の歴史なのでしょうか。柿右衛門は日本の文化の粋でもあり宝でもあります。益々良き作品を焼成され、次の世代に大切に引き継がれることを切にお願い致します。

 

 

 

有田焼、ヨーロッパへ・・・17世紀後半から18世紀前半にかけて

 

1650年代の有田焼(古伊万里)は、オランダ連合東インド会社(略号VOC)を通じてのヨーロッパへの大量の輸出もあり、手工業から工場制手工業に近い大きな産業に変換して、産業史的にも大きな転換期を迎えています。商品的にも、白さが際立つ高品質の磁器が完成され、世界最高の品質を誇る景徳鎮磁器に遜色のない、デザインや生産技術を含めて高いレベルに到達したとされています。この時代中国では、明朝が滅び清朝が起こる内乱状態にあり、ヨーロッパでは中国製磁器が入手困難になり、有田焼(古伊万里)が、オランダ連合東会社を通じて大量にヨーロッパを中心に輸出され、有田焼(古伊万里)は黄金時代を迎えています。

 

 

 

ヨーロッパの王侯貴族や富豪が競って求めた!

 

17世紀前半のヨーロッパには、磁器を焼成する技術が開発されておらず、真珠のような白い輝ききを持つ磁器、特に色絵・柿右衛門様式の磁器は特に人気が高く、王侯貴族や富豪が競って求めたといます。1650年代中頃から1670年代には色絵磁器、1680年代にヨーロッパ向けの高級色絵磁器として柿右衛門様式が生まれ、1690年代には金襴手(きんらんで)と呼ばれる絢爛豪華な様式が生まれています。金襴手(きんらんで)とは上絵(うわえ)付けした陶磁器に、金箔や金泥(きんでい)を更に焼き付けて文様を施したもので,織物の金襴に似ているところから、金襴手と呼ばれています。

 

有田焼(古伊万里)の金襴手(きんらんで)は、二つの作風に分けられ一つは国内向けの和調文様で鉢や皿の作品が多くあり、もう一つはヨーロッパ向けです。ヨーロッパ向けは風景や花など日本的な文様が描かれた大型の作品が特に人気だったようです。

 

 

 

ヨーロッパでは、バロック様式が最盛期に!

 

この時代のヨーロッパは、16世紀末頃に、ローマ・フィレンツェなどで誕生したバロック様式(16後期〜18世紀中頃)が全盛期を迎えていました。バロック様式は曲線や楕円を多用して、豪華な装飾性に特徴があり、建築や絵画、文学や音楽、彫刻や工芸などあらゆる面に広がりをみせています。特にこの時代の後期バロック様式は、神や王権を象徴する役割を担っていたともいわれ、装飾性に富んで美しい有田焼(古伊万里)の金襴手(きんらんで)の大きな作品は、王侯貴族や富豪の壮麗な居室によく似あったと思います。

 

 

 

柿右衛門様式の誕生

 

1650年以降の有田焼(古伊万里)は、現代で言えばグローバル企業となり、ヨーロッパを大きなターゲットとして、マーケテイングに秀でた商人と美的センスと優れた技術を持つデザイナーさん・絵付師・職人・窯元さんなどが一致団結して、瀟洒(しょうしゃ)ですっきりとした鮮やかな高品質の磁器・柿右衛門様式を生み出しています。柿右衛門様式は1650年代から1690年代にかけて数多くつくられ、当時のヨーロッパで最も人気が高く、ヨーロッパの窯でも多くの模倣品がつくられたといいます。書籍『 古伊万里 磁器のパラダイス 青柳恵介 荒川正明 新潮社 2009 』「鍋島・柿右衛門の美」のなかで荒川正明さんは次のように書いています。僭越ですが、同書より引用させていただきました

 

 

 

余白の美

 

「柿右衛門の最大の特徴は、うつわの隅々まで透徹した美意識で包み込み、かたち・素地・色絵など様々な要素で洗練を極めた点にある。とくに、牛乳を凝固させたような柔らかく温かみのある濁手(にごしで)の素地は、景徳鎮窯の澄んだ調子の白磁とは一線を課すもので、日本の湿潤な風土を体現したような温かみと柔らかみを感じさせる。その素地の上に、繊細なタッチでこの上なく優雅な絵模様が展開するのである。」「この柿右衛門を讃える言葉として、しばしば余白の美がある。ただし、余白をたっぷりととった構図は、どうやら西欧よりの注文で完成させたスタイルではなく、日本の江戸時代前期の時代様式と考えたほうが妥当であるようだ。その時代様式をリードした代表的な人物に、江戸の絵師・狩野探幽(かのう たんゆう)(1602~1674)がいる。

 

この江戸狩野の総帥であった狩野探幽の画風の最大の魅力もじつは余白の美にあったとされる。探幽は、何も描いていない部分、つまり本来は空虚であるはずの余白に詩情を込め、空間の美しさを出現させた。この探幽の画風と柿右衛門には、何か共鳴する美意識が感じられてならない。両者の優雅な意匠世界には、私たち現代人までもが深く魅了されているのである。」

 

 

 

有田焼(伊万里焼)にかかわる全ての人たちが心を一つにして!

 

私には、雑誌や書籍等で柿右衛門様式の作品を見た時、「余白の美」と称され、色鮮やかな美しい色絵の磁器とまでは何となく解っても、鮮やかで日本的な美意識の極みとして、現在でも国内外の多くの人を魅了して、ドイツをはじめとするヨーロッパで模倣品がつくられ、現在世界最高峰の磁器の一つとされるドイツの「マイセン」が誕生する礎になったのかよく解りませんでした。

 

荒川正明さんの同書の説明でその疑問がおぼろげながら理解できました。伊万里焼・有田焼が主にヨーロッパに輸出された時代の世界の情勢。桃山時代の絢爛豪華な画風と異なる江戸狩野といわれる淡白で瀟洒な狩野探幽様式の存在。伊万里焼・有田焼にかかわる全ての人たちが心を一つにして伊万里焼・有田焼を隆盛させるという強い意志と実践があったからこそ、ヨーロッパの人たちを魅了し、現代でも多くの人たちに愛される洗練された高品質の色絵磁器が焼成されたのでしょうか。

 

 

 

ヨーロッパの人たちを魅了!

 

書籍『 古伊万里 磁器のパラダイス 青柳恵介 荒川正明 新潮社2009』は、論理も明快で文章も専門用語的でなく、現代的な言葉で書かれているのでとても読みやすいで案内書です。掲載の写真も大きくて美しく、作品を見るだけでも楽しくなり、伊万里・有田焼、陶磁器に興味のある方だけでなく、多くの方に強くお勧めします。

 

また同書の「伊万里に惚れた男たち」の章では、哲学者で民芸運動の創始者の柳宗悦(やなぎ むねよし)さんや関西の古美術商で「古伊万里染付図鑑」の著者瀬良陽介さん、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)経営の料亭星岡茶寮(ほしがおさりょう)支配人で古美術をこよなく愛した数寄者(すきしゃ)・風流人の秦秀雄さん、日本美術の蒐集家で後にその収集品の多くがメトロポリタン美術館日本ギャラリーのメインとなったことで知られるハリー・パッカードさん、骨董の趣味を通じてかぶき者の粋と意地を生涯貫いたという星野武雄さんなど「伊万里に惚れた男たち」について、国文学者で古美術評論家の青柳恵介さんが紹介しています。

 

文章も軽妙で伊万里焼をこよなく愛した人たちの姿が浮かんできます。民芸運動の創始者の柳宗悦(やなぎ むねよし)さんは、私も以前から民芸運動の創始者として、多少知っていたのでとても興味を持って読ませていただき、柳さんの生き方と感性に大いに共感しています。白洲次郎さんご夫妻の記述も初めて知ったことが多くて新鮮で、白洲次郎さん夫人の正子さんについては、これまでも書籍やテレビなどで多く見ていましたが、いつもスカッとしていて明るくカッコいい。あの時代に白洲夫妻のような人が存在したこと自体が不思議に思えてきます。

 

この「伊万里に惚れた男たち」の項は、日本人でないような日本人が描かれ、古伊万里の知識を学ぶだけでなくても、私も楽しくなります。この項からも同書はお勧めです。同書は、新潮社の「芸術新潮」に連載されたものを再編集増補したものとのことで、文芸書出版の新潮社さん発行だけに文芸書としても読んでも、とても参考になります。

 

余談ですが、私は新潮社本の愛好者で、三島由紀夫さん「豊穣の海」4部作、井上靖さん「孔子」、」安部公房さん「燃えつきた地図」、遠藤周作さん「沈黙」」・「死海のほとり」、阿川弘之さん「暗い波濤」上下巻、城山三郎さん「雄気堂々」上下巻、小澤征爾さんと村上春樹さん「小澤征爾さんと、音楽について 話をする」、島田荘司さん「写楽 閉じた国の幻」などの初版本や初版にごく近い版を多く書棚に置いています。(私の唯一のお宝?)

 

 

 

鍋島藩直属の藩窯で制作された鍋島焼・鍋島様式

   

鍋島焼は17世紀後半に佐賀藩(鍋島藩)直属の藩窯で制作された江戸時代の代表的な磁器です。佐賀藩(鍋島藩)が現在の佐賀県伊万里市大川内山(おおかちやま)に直属の藩窯を築き、鍋島藩による厳重な統制のもとに、徳川将軍家や大名などへの献上品の制作を目的として、伊万里焼(有田焼)の技術と意匠、藩の資金を結集して焼成しています。鍋島焼の代表的な作品は、色鍋島(いろなべしま)・鍋島青磁(なべしませいじ)・鍋島染付(なべしまそめつけ)ですが、作品としては、色鍋島(いろなべしま)・鍋島青磁(なべしま せいじ)が多くなっています。将軍家などへの献上品として制作されているので、販売が目的ではなく商品として一般社会に流通することはありませんでした。

 

 

 

官製プロジェクト・・・有田全域から最も優秀な職人が選ばれています!

 

藩窯は何度か移転していますが、大川内山(おおかちやま)に窯が築かれてからは組織・職制が整備され、有田地域で伊万里焼(有田焼)に従事する職人のうち優れた技能を有するものだけを選抜し、職人には武士階級と同等の士分格(しぶんかく)を与えるなど、恵まれた生活環境にありましたが、技能が劣るものや怠惰な職人は容赦なく追放しています。

 

鍋島藩の藩窯では、磁器の形を形成するロクロ師、文様・図案のデザインを担当する文様師・デザイナー、文様を絵筆描く絵師、窯で焼成する陶工など各作業が分業で行われ、各作業とも有田全域から最も優秀な職人が選ばれています。(当時の日本では磁器を制作できたのは有田地域だけでしたので、有田全域ということは、日本全土からと同じこと思われます。)

 

文様・図案の作成は、最先端のセンスと才能、知識が求められ、江戸や大阪、京都などから募集したのかもしれません。現在でいえば大きな官製プロジェクトであり、身分も保証されて自分の才能を発揮できる魅力的な仕事であり、多くの優秀な技能を持つ人たちが参加したと思います。藩窯での制作は、佐賀藩(鍋島藩)の威信をかけたものであり、優雅な品格を保つため技術の革新・サイズを含めた基本的な形状・意匠デザインなどについての厳しい規則が決められています。

 

 

 

日本的な美意識と洗練されたデザインの創造!

 

意匠デザインについては、日本的な美意識を持ちながらも斬新で洗練されたデザインを創造して、大和絵のような絵画調のデザイン、直線と直線を構図化した幾何学的なデザイン、ダイナミックにデフォルメされたデザインと三つの系統に分かれます。絵付についてはどの作品も、最高の技術を持ついわゆる名人と呼ばれる絵師が描いていると思われ、丁寧に描かれた文様やダイナミックな筆使い、鮮やかな色調と淡いグラデーションなど他と類を見ない見事な仕上がりとなっています。

 

作品は皿類が多く、櫛目文様(櫛の歯のように等間隔に描かれた縦縞の文様)の比較的高い高台(こうだい)(茶碗や皿などの底に付けられた低い円環状の台部、器の安定を保つために付けられます。)と木盃形(もくはいがた)(浅い円錐形で上部に開いた形の盃状のもの)の形が特徴で、大きさは1尺(30.3cm)、7寸(20.2cm)、5寸(15.1cm)、3寸(9.1cm)の規格に統一されていました。

 

江戸時代後期になると、江戸を中心として町民文化は栄えたが、幕府や諸藩の財政が窮乏してきます。佐賀藩(鍋島藩)も同様に藩財政が厳しくなり藩窯も次第に縮小され、明治新政府が1869年に誕生して、廃藩置県が1871年(明治4年)に実施され、佐賀藩(鍋島藩)が廃止されるとともに、佐賀藩(鍋島藩)直属の藩窯も廃止されています。

 

◆その後の鍋島藩

鍋島藩は幕末1830年に第十代鍋島直正が藩政改革・殖産興業に努めています。幕末の多くの諸藩のなかでも、最も強力な軍事力をつくり討幕派の中心勢力の一つとなり、大熊重信、江藤新平、副島種臣(そえじま たねおみ)らの多くの幕末・明治政府の有力な人々を生んでいます。大隈重信は、東京専門学校(後の早稲田大学)の創立者として知られ、日本で最初の政党内閣を板垣退助などと組織して、首相にもなっています。江藤新平は、明治政府で,司法権の独立,司法制度の整備などに努めていますが、征韓論に組して敗れ政府の役職を辞してのち、佐賀の乱を起こして刑死しています。副島種臣は、明治政府で外務卿などを歴任していますが、征韓論に組して下野しています。政治家であるとともに、書についての特別な教養・知識を持ち、巧みな書の書き手としても知られています。

 

 

 

民間で藩窯の技法と様式を継承して!

 

廃藩置県により、藩窯が廃止されると、大川内山(おおかちやま)の陶工さんを中心にして、藩窯の高い品質と優れた技法が継承され現在に至っています。藩窯の技法と様式を継承しながら伊万里市で作陶されているものを伊万里・鍋島焼。現代の生活様式を意識して様式にとらわれずに伊万里市で作陶されたものを伊万里焼と呼んでいます。

 

 

 

大川内山鍋島窯跡が国の史跡指定をうけました!

 

佐賀藩(鍋島藩)の藩直属の藩窯が築かれた大川内(おおかわち)が2003年(平成15年)に、「大川内鍋島窯跡(おおかわち なべしまかまあと)」として国の文化財指定を受けています。史跡内には御用窯跡(ごようかまあと)や御細工場跡(おさいくばあと)(小規模な作業場のことです。)、物原(ものはら)(磁器の不良品や灰・道具等が捨てられた場所のことです)、藩役宅跡、陶工屋敷跡群などが現存しています。

 

大川内鍋島窯跡は、日本の陶磁器の歴史や陶磁器焼窯の歴史や仕組み、当時の陶工の姿・生活などを知るうえで大変貴重な史跡となっています。佐賀県を訪れる機会がありましたら、三方が中国の山水画を思わせる奇岩に囲まれた伊万里市の「秘陶の里 大川内山(おおかちやま)」を訪ねてみて下さい。大河内山には、現在も20以上の窯場や各工房のギャラリーが軒を連ね、窯場の高い煙突や町並みは当時の風景を思い起こし、裏道や細い路地を入れば昔の景観そのままで、羽織袴(はおり はかま)の鍋島藩の役人が障子の向こうに見えるようでもあり、半纏姿(はんてん すがた)陶工さんの掛け声が路地の裏から聞こえてくるようです。

 

ギャラリーの古伊万里の名品を見たり、工房やギャラリーには喫茶や甘味処もありますので、鍋島焼のオシャレなカップで美味しいコーヒーをいただくのも楽しみの一つです。私もいただきましたが、名品で飲むコーヒーは格別な味ですね。大川内山(おおかちやま)へのアクセスはJR筑肥線伊万里駅から車で約15分、西肥バスで約20分弱、長崎自動車道・武雄北方ICより約30分です。

 

◆色絵(色絵磁器)とは

白磁などに透明な釉薬を施して1300℃から1350℃の高温で本焼きした磁器に、ガラス質の赤、緑、黄色、紫、藍色の上絵の具で文様を描き、再度低い温度(700〜850℃程度)で焼き付けたものです。赤を主調とするので赤絵ともよばれます。

 

◆染付けとは

白磁の素地に呉須(ごす)と呼ばれる顔料(酸化コバルト)で下絵付け(素地の上に直接絵などの文様を描くこと)して、ガラス質の透明な釉薬(ゆうやく)を施し て、1300℃から1350℃の温度で焼いた磁器のことです。呉須で描いた下絵を焼くと藍青色に変わり、染織の藍(あい)染に色彩が似ているのでこの名称がついたと言われます。呉須は江戸時代までは中国から輸入されています。

 

◆青磁とは

青緑色をした磁器を青磁と呼んでいます。江戸時代初期に有田焼(伊万里)が、日本で初めて青磁を焼成しています。その後、鍋島焼が品質・色調・磁器としての完成度など全ての面で青磁の最高水準に達したとされています。青磁は青緑色を基調とした美しい色彩が特徴ですが、焼成された時代や作り手、窯の温度や焼成の際に、窯内で置かれた位置などによっても仕上りが微妙に違ってきます。淡い緑色や淡い青色、オリーブのような優しい黄色など、様々な魅力を見せる青磁は、日本人の感性、美意識ともよく調和して、現代作家さんによる美しい作品、優れた作品が多く生まれています。

 

◆青磁の焼成とは

物質が空気中の酸素と化合することを酸化と言いますが、反対に酸化した物質から酸素を失うことを還元と言います。バーナーや窯などで燃焼させる時、流入する空気を制限して不完全燃焼状態の炎(一酸化炭素を含みます)を還元炎と呼び、この還元炎は温度が低く還元性があります。還元とは、酸化物から酸素を奪う・酸素を失う現象のことで、青磁はこの還元炎による還元現象を窯の中で発生させることで作られます。成形した器などの素地に微量な鉄分(酸化第二鉄)を含んだ釉薬(ゆうやく)を施し、窯で焼成する際に窯の口を閉じるなどして、酸素の流入を抑えた不完全燃焼の状態(還元炎・かんげんえん)で燃焼させます。窯のなかで燃えるには酸素が必要ですが、窯内の酸素が少ないので、酸化している素地や釉薬の中の酸素を奪って、素地や釉薬に含まれる鉄分・酸化物が酸素を失い(還元)釉薬や素地の鉄分が青緑色に発色することで青緑色・青磁の磁器になります。

 

 

 

ヨーロッパで白磁の磁器をつくりたい!

 

ヨーロッパの王侯貴族の中で特に磁器の収集に熱心だったのは、17世紀後半ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世でした。(ポーランド王も兼ね、ポーランド王としてはアウグスト2世)。アウグスト1世は強健王ともよばれ、ザクセンの殖産興業に力を注ぎ、経済は大いに発展してザクセンはプロイセン王国やバイエルン王国などと並ぶ強国となっています。ザクセンは現在のドイツ16州のうちの一つの州で、現在のポーランドと国境を接していて、州都はドレスデンです。この頃はまだドイツ連邦共和国は成立しておらず、多くの王国が群雄割拠して、日本の歴史でみれば、戦国時代のイメージでしょうか。

 

ザクセン州の首都はドレスデンで、フリードリヒ・アウグスト1世と次のフリードリヒ・アウグスト2世の時代に、バロック様式の美しい街並みがつくられ、ドレスデンは芸術と音楽のまちとしても知られています。古都の美しいドレスデンの街並みは先の第二次世界大戦で一夜にして灰燼になりましたが、東西ドイツ統一後、再建は「世界最大のジグソーパズル」といわれるほどの困難な作業だったと言われていますが、歴史的建造物の原状復元により古都の美しいドレスデンの街並みが復活しています。

 

 

 

ヨーロッパ最高の磁器・マイセンの誕生!

 

ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は文化や芸術、音楽にも力を注いでいましたが、特に日本や中国など東洋磁器の収集には熱心で、自軍の兵士数百名とプロイセンの国王が持つ磁器150個を交換したという逸話も残っています。フリードリヒ・アウグスト1世は、収集するだけでは満足でできずに、白磁の磁器を自分たちで作りたいと錬金術師のフリードリッヒ・ベトガーをドレスデン郊外マイセンのアルブレヒト城に幽閉して、磁器の研究をさせています。フリードリッヒ・ベトガーは1709年に白磁器の製法を解明して、1910年にはヨーロッパで初めて硬質磁器窯・マイセンが誕生して、王立磁器製作所がアルブレヒト城内に設けられ、以来、マイセンはヨーロッパ最高の高級磁器窯として名声を保っています。

 

 

 

 ヨーロッパへの輸出から、内需の開拓に方向転換!・・・18世紀の後半から

 

1650年代から1700年代初めまでは、大変な人気のヨーロッパへの輸出が次第に下火になり、1750年代には途絶えてしまいます。

 

 

 

ヨーロッパへの輸出が止まる!・・・1750年代

 

1750年代にはヨーロッパへの輸出が途絶えてしまいますが、その原因はいくつか挙げられています。A江戸幕府が1715年に密貿易と金銀銅の海外流出を防ぐため、オランダと中国・清の船数・貿易額を制限した「正徳新例(しょうとくしんれい)、海舶互市新例(かいはくごししんれい)ともよばれます。」の発令により、輸出の実務を担っていたオランダ東インド会社が伊万里の扱いを減らし、停止したこと。「正徳新例(しょうとくしんれい)」は、日本の自伝文学の傑作といわれる「折りたく柴の記(おりたくしばのき)」の著者で、江戸前期から中期の大儒学者で幕府の政治を補佐した「新井白石(あらい はくせき)」の進言によるものです。

 

B中国・清朝が成立したことにより、中国磁器が復活して競争相手となり、価格競争でも不利になってきた。C伊万里焼のヨーロッパでの人気をみて、ヨーロッパのなかで磁器を開発制作する窯元が現れるとともに増えてきた。このような情勢の中で、18世紀の後半には有田焼(古伊万里)は外需から内需、毎日の食事の際に用いる器などを中心にして販路を全国に広げます。

 

 

 

人口の急増・江戸時代前期1200万から約100年間に3000万人以上へ!

 

17世紀・江戸時代前期から18世紀・江戸時代中期頃までの約100年間に、日本の人口は1200万人程から3000 万人以上へと2倍半に急増して、家族形態も大きな合同家族形態から比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態へ変わっています。特に江戸は人口100万人を超える世界でも有数の都市であったといわれています。

 

 

 

有田焼(古伊万里)の優れたマーケティング

 

人口が急増して、家族形態が小家族に変わりつつあるという、大きな時代の変化の中で、食事の際の器を木椀(もくわん)と呼ばれる従来の木の器から、吸水性が無く硬くて丈夫、手に持った時に白く輝き、食事が何となく楽しくなる磁器の器などにターゲットを定め、有田焼(古伊万里)新しい市場を開拓しながら、スピード感をもって全力投球しています。

 

 

 

時代の新しいニーズを見極め、新しい市場を切り開く!

 

有田焼(古伊万里)のマーケティングは、素晴らしいですね。ヨーロッパへの輸出が停滞すると時代の新しいニーズを見極め、ニーズにあった商品を開発することで、新しい市場を切り開いて、そこに全力投する。この有田焼(古伊万里)の事例は、高度成長期の成功体験を忘れられず、時代を切り開く新しい商品開発への取組が遅れているとされる、現代の日本・私たちに最も求められていることかもしれません!

 

マーケティングとは、どんな価値を・誰に・どのように差別化していくかということとされます。有田焼(古伊万里)の取り組みをマーケティング的にみれば、吸水性がなく硬くて丈夫な磁器を、食事の際の器に最適として位置付けることで、人口が急激増し家族形態が大家族から小家族形態に変わりつつあった江戸を中心とした全国の人たち・新しい市場に、いち早く導入・供給することで、先行者利潤(せんこうしゃりじゅん・先発優位ともよばれます)を得るとともに、多くの人たちに食事の際の利便性がたかまり、白く明るい器で食べる楽しみを増やしてくれています。

 

また伊万里港からの船便による供給網により、配送コストを抑えたことも大きな差別化の要因になったと考えます。私たち日本の現在は、時代は何を求めているのか、時代のニーズは何なのか。何が欠けているのか。有田焼(古伊万里)の取組を見習う必要があるのかもしれません。

 

 

 

競合する産地の出現で、独占的地位の低下へ

 

19世紀の初め1810年代に、尾張瀬戸の陶工・加藤民吉(かとう たみきち)が有田で有田焼(古伊万里)の技法を学び、現在の愛知県瀬戸市周辺で磁器の製作が始まり、同時期にやはり現代の岐阜県多治見市・土岐市・瑞浪市を中心とする地域でやはり磁器の生産が始まっています。このように他地域に競合する産地が現れたことで、有田の独占的地位が低下するなか、新しい明治時代を迎えることになります。

 

 

 

食器類の変遷

 

食事に用いられる食器類は、土器から始まったとされていますが、道具の進化とともに木をくりぬいてつくる木椀が使われようになり、平安時代になると木地に漆を塗った黒色や朱色の椀に変わり、漆で描く文様入りの豪華な器も作られ、江戸時代のはじめまでは漆塗りの木椀が食事の際の盛り付けに使われています。磁器が有田でつくられるようになると、食事に用いる飯茶碗には硬くて吸水性のない磁器が多く使われ、木椀は温度を直接感じさせないので汁椀などに使用されるのみになっています。木椀は価格も高く取り扱いも難しいなどの理由もあると思われます。

 

陶器も江戸時代初期には、技術的にも大きく進歩していますが、陶器は若干の厚みと重みもあるので、ご飯を盛り、手に取ってご飯を食べる飯茶碗などには、薄くて軽く硬い磁器が日常使いの飯茶碗として扱い易かったのかもしれませんね。

 

 

 

 有田焼の明治時代から現代へ【有田焼の明治時代・・・殖産興業を支えて】

 

明治時代になると、日本の陶磁器は殖産興業の代表的産業として、明治初年には茶と生糸に次ぐ輸出額を記録しています。有田焼は、そのなかでも有力な産地として、外貨獲得に大きく貢献しています。明治初年(1868年)といえば、今から約150年前に窯業(ようぎょう)・陶磁器が国家財政を支えたことなど、とても信じられません。現代でいえば電気・エレクトロニクス産業や自動車産業にあたるわけであり、当時の陶工さんの気持はいかばかりであったでしょうか。

 

1870明治3)年に有田はドイツ人化学者ゴットフリート・ワグネルを招いて、明治時代の窯業(ようぎょう)や窯業に携わった多くの人たちに大きな影響を与えています。ゴットフリート・ワグネルは、石炭窯の実用化や呉須(ごす)と呼ばれる顔料(酸化コバルト)を鉱物から生成するのではなく、工業的につくることなど多くのことを伝授しています。また万国博覧会への出品には、作品制作の指導や現地での作品説明書(現在のガイダンス・ガイドブックでしょうか。)の作成など、万国博覧会での成功に大きな役割を果たしてくれています。

 

 

 

欧米の万国博覧会に積極参加へ

 

有田焼は、1867年(慶応3年)のフランス・パリ、1873年(明治6年)のオーストリア・ウイーン、1876年(明治9年)のアメリカ・ペンシルベニア州・フィラデルフィア、1878年(明治11年)フランス・パリ、1883年(明治16年)オランダ・アムステルダムと次々に万国博覧会に参加して、一等金牌や名誉大賞などを受賞するなど、ジャポニズムの隆盛や輸出への貢献は大きかったといいます。高さ2mほどの大きな花瓶や高さ1.7mの大きな壺など背の高い作品が特に好評だったようです。

 

またヨーロッパの製陶技術の習得やリモージュ硬磁器として知られるフランス・リモージュの製陶機械類の購入などでも大きな成果を得たとされています。昭和・平成時代の歴史家・作家として著名な「奈良本辰也」さんは、その著「近代陶磁器業の成立」の中で次のように述べています。「これら数回の万博への参加によって、欧米市場を確保すると共に進んだ技術と機械とを導入することが出来て有田陶業の近代化を促進したことは実に劃期的なことであったといえよう」「奈良本辰也」さん著書「明治維新論」「吉田松陰」「高杉晋作」「京都の庭」などを読んでみたいですね。司馬遼太郎さんの著書は多くは読んでいるので、違う視点から見てみたいです。

 

◆窯業(ようぎょう)とは

粘土などの天然原料を火で焼いて、陶磁器や瓦、セメントなどを製造する 工業ことですが、現在では高純度の人工原料や天然原料から焼成してつくられるファインセラミックなどを製造する工業も指しています。

 

◆ジャポニズムとは

19世紀後半フランスを中心にヨーロッパやアメリカで広がった、日本の美術品・浮世絵や陶磁器、漆製品などへの関心を指しますが、浮世絵を中心とした日本美術のヨーロッパ美術への影響も意味して、ジャポニズムはフランスの印象派やヨーロッパ建築や庭園などに大きな影響を与えています。

 

 

 

有田焼の大正時代から現代へ

 

毎年ゴールデンウイークに開催され、100万人以上の人出があり、有田の町が大賑わいになる「有田陶器市」は、1916年(大正5年)に「陶器市場」として始まり、年々盛んになり現在に至っています。

 

 

 

現代の今泉今右衛門(いまいずみ いまえもん)

 

今泉今右衛門(いまいずみ いまえもん)は、佐賀県有田町の陶芸家の家系で、明治時代の廃藩置県により鍋島焼が廃止されるまで、代々鍋島藩窯の赤絵付け師を勤めています。12代今右衛門(1897年~1975年)さんが色鍋島復興させ、1917年(昭和46年)に主宰していた色鍋島技術保存会が、国の重要無形文化財総合指定の認定を受けています。(1975年没)

 

13代今右衛門(1926年~2001年)さんは、1989年(平成元年)に「色絵磁器重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定されています。(2001年没)14代今右衛門(1962年~)さんは、2002年(平成14年)に十四代を襲名し、2014年(平成26年)に「色絵磁器重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定されています。

 

 

 

現代の柿右衛門

 

1640年ころに日本最初の赤絵を焼成したと伝えられている初代酒井田柿右衛門。13代柿右衛門(1906年~1982年)さんの時代に、江戸時代以降久しく絶えていた柿右衛門様式の特徴の一つとされる「濁手(にごして)」を復興・復元して、その保存を後世に残すべく「柿右衛門製陶技術保存会 会長13代酒井田柿右衛門」が設立され、1971年(昭和46年)に「重要無形文化財 柿右衛門 濁手」として、総合指定を受けています。右衛門製陶技術保存会(会長 十三代酒井田柿右衛門)」の設立を機にその保存と育成が図ら江戸時代中期以降は、ヨーロッパへの輸出の人気が金襴手(きんらんで)に移り、またヨーロッパへの輸出がこの時期から途絶えたことが、江戸中期以降の柿右衛門様式の濁手(にごして)の製作が途絶えた理由とされています。

 

十四代柿右衛門(1934年~2013年)さんが、2001年(平成13年)に「色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)」に認定されています。(2013年没)十五代柿右衛門(1968年~)さんは2014年(平成26年)に十五代柿右衛門を襲名して、「柿右衛門製陶技術保存会 会長15代酒井田柿右衛門」として、技術集団を統率しています。十四代柿右衛門 色絵磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

 

◆濁手(にごして)とは

有田焼・柿右衛門様式特徴のミルキーホワイト調の温かみのある乳白色の素地のことで、濁手(にごして)とは、佐賀県有田地方の方言で、コメのとぎ汁のことだそうです。柔らかくて温かみのある乳白色を指す言葉として、ピッタリの表現ですね。「柿右衛門様式の誕生」の項で書かせていただきました、書籍『 古伊万里 磁器のパラダイス 青柳恵介 荒川正明 新潮社 2009 』「鍋島・柿右衛門の美」で引用させていただきました、以下の文章が「濁手(にごして)」なのですね。「柿右衛門の最大の特徴は、うつわの隅々まで透徹した美意識で包み込み、かたち・素地・色絵など様々な要素で洗練を極めた点にある。とくに、牛乳を凝固させたような柔らかく温かみのある濁手の素地は、景徳鎮窯の澄んだ調子の白磁とは一線を課すもので、日本の湿潤な風土を体現したような温かみと柔らかみを感じさせる。その素地の上に、繊細なタッチでこの上なく優雅な絵模様が展開するのである。」

 

 

 

《人間国宝・重要無形文化財》とは

 

1950年(昭和25年)に制定された「文化財保護法」は、文化財を保存・活用し国民の文化的向上に資するとともに,世界文化の進歩に貢献することを目的とする法律です。この文化財保護法では、「無形文化財とは演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの」と定義づけられています。これは建造物、絵画、工芸品などの形あるものを有形文化財として、形のないものを無形文化財と命名しています。有形文化財が「モノ・物」をさしているのに対し、無形文化財は芸能や絵画・工芸技術などのように演技や制作技術など、個人や集団が相伝し、体得している無形の「技(わざ)・技術」そのものをさしています。その技を体得している人や集団をさしているものではありません。

 

無形文化財のなかで特に重要なものを、文部科学大臣は重要無形文化財として指定することができ、重要無形文化財に指定される無形の「技」の存在を具体化するため、その技を高度に体現できる人、またはその技に精通している人、または前記の人や集団を保持者または保持団体として認定します。この重要無形文化財保持者のことを「重要無形文化財保持者(人間国宝)」といいます。人間国宝という名称は正式な名称ではなく通称となっています。指定保持者が死亡したとき、指定保持団体が解散等により保持が適当でなくなったときは、指定が解除されます。

 

 

陶芸部門の無形文化財保持者は次の方です。

 

2016年(平成28年)9月現在

◇白磁     井上萬二(いのうえ まんじ)(有田焼・井上萬二窯) 前田昭博(まえた あきひろ)(白瓷(はくじ)やなせ窯・鳥取市)

◇色絵磁器 十四代今泉今右衛門 (色鍋島・今右衛門窯)

◇鉄釉陶器 原 清    ◇志野 鈴木 蔵

◇瀬戸黒  加藤孝造   ◇備前焼   伊勢崎淳

◇釉裏金彩(ゆうりきんさい) 吉田美統(よしたみのり)

◇無名異焼(むみょういやき)五代伊藤赤水  ◇小石原焼 福島善三

 

 

 

有田町が「日本の20世紀遺産20選」に選ばれました!

 

有田町は、日本で初めて磁器を焼成した町として知られていますが、江戸や明治時代の面影が残る街並みや半纏(はんてん)を着こんだ江戸時代の職人さんが窯から煙を出しながら染付を焼いているかのような錯覚を感じるレトロな裏通りや横道など、見所満点の観光地でもあります。白壁土蔵造りの家並みが続くなかに、明治時代の初期に有田焼の買い付けに来た外国人バイヤーさんを接待・宿泊するための場として建てられた洋風建築の有田異人館もあります。有田異人館は佐賀県で最も古い洋風建築として、1977年(昭和52年)佐賀県の重要文化財に指定されています。

 

 

 

国の重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)の認定を受ける!

 

1991年には、国の重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)に、江戸・明治・大正・昭和の各時代を代表する伝統的建造物の残る内山地区が指定を受けています。

 

 

 

有田町を含む佐賀、長崎両県の8市町が「肥前窯業圏」として日本遺産の認定!

 

2016年には有田を含む佐賀、長崎両県の8市町が「肥前窯業圏」として日本遺産に認定されています。

 

 

 

「有田の文化的景観/町並、産業・文化施設群/20世紀に継続発展した伝統産業景観の代表」として選ばれる!

 

2017年に日本イコモス国内委員会が、後世に残したい「日本の20世紀遺産20選」に有田町が「有田の文化的景観/町並、産業・文化施設群/20世紀に継続発展した伝統産業景観の代表」として選ばれています。

 

◆国の重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)とは

歴史的な集落・町並みを保存し、通りの両側のように連続した空間や、面的な広がりのある町並みや集落全体を保存して、これを核にした町づくりを図るため、文化庁が1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正で設けています。

 

◆日本遺産とは

文化庁が、文化財を通じて地域の活性化を図るため、2015年度からスタートさせた事業です。地域の歴史的魅力や特色を通じ,日本の文化および伝統を語る「ストーリー」を文化庁が認定して、日本遺産として国内や海外にも戦略的に発信することで,地域の活性化をはかることを目的としています。個々の遺産を「点」として指定・保存してきた従来の文化財行政とは異なり,点在する地域の遺産である有形・無形の文化財を「面」として活用し発信することによる地域のブランド化の促進をねらいとする。認定するストーリーには,単一の市町村内で完結する地域型と,複数の市町村にまたがって展開するシリアル型(ネットワーク型)があり、年に1度公募しています。文化財個々による指定ではなく、有形無形の面として捉えることで、全体としてのイメージの発信・ブランディングを図るという画期的な事業ですね。

 

☆上記はコトバンクより引用させていただきました。

 

 

 

日本磁器のふるさと 肥前 ~百花繚乱のやきもの散歩~

 

陶石、燃料(山)、水(川)など窯業を営む条件が揃う自然豊かな九州北西部の地「肥前」で、陶器生産の技を活かし誕生した日本磁器。肥前の各産地では、互いに切磋琢磨しながら、個性際立つ独自の華を開かせていった。その製品は全国に流通し、我が国の暮らしの中に磁器を浸透させるとともに、海外からも賞賛された。今でも、その技術を受け継ぎ特色あるやきものが生み出される「肥前」。青空に向かってそびえる窯元の煙突やトンバイ塀は脈々と続く窯業の営みを物語る。この地は、歴史と伝統が培った技と美、景観を五感で感じることのできる磁器のふるさとである。

 

☆上記は、文化庁・日本遺産ポータルサイトより、引用させていただきました。

 

同サイトには、日本全国の日本遺産が詳しく紹介されています。情報量も多く、写真も画面もとても美しいので、是非ご覧になって下さい。みどころやグルメ・お土産なども掲載されていますので、旅行の際のプランニングなどにも最適なコンテンツです。このサイトを見ていると、私たち日本は歴史や自然、街並み、人の営みも本当に素晴らしいな、いい国だなと思えてきます。私もQualitaブランドの商品つくりの過程で、北海道旭川から九州鹿児島まで多くの素晴らしいものつくりの産地や工房を訪ねてきました。そして周囲の自然と調和した美しい街並みや村落、地域に根差した人々の営みや人への優しさ、地域で大事に守ってきたて美味しい食べ物や風習を体験し、見てきました。私たち日本の文化・伝統、豊かな自然、培ってきた街並みや人の営みを次の世代に引き継がなければならないとの思いを改めて強くかみしめています。

 

 

 

日本イコモス国内委員会とは

 

 イコモス(ICOMOS)とは、文化財の保護活動を行い、ユネスコなどの国際機関との協力関係を持つ国際非政府組織です。1964年に採択された「記念物と遺跡の保存と修復に関する国際憲章」(ベネチア憲章)を受けて1965年に設立さました。正式名称は「国際記念物遺跡会議(International Council on Monuments and Sites)で、頭文字をとって「イコモス」とよばれています。

 

ユネスコの世界遺産登録について、各国から推薦された文化遺産を文化遺産における専門の諮問機関として調査、評価し、世界遺産委員会に登録、情報照会、登録延期、不登録の4段階の報告・勧告を行っているので、が特に関心が集まっています。参加国は2016年3月時点で151か国、会員はおよそ9500人。各国の文化遺産保存分野の第一線の専門家や専門団体によって構成されています。本部はフランスのパリにあり、日本は、1972年(昭和47年)に国内委員会(日本イコモス国内委員会)が承認されています。

 

日本イコモス国内委員会が2017年に発表した、『後世に残したい「日本の20世紀遺産20選」』のうち、有田町が「有田の文化的景観/町並、産業・文化施設群/20世紀に継続発展した伝統産業景観の代表」として選ばれたことは、これからが大変楽しみですね。

 

☆上記はコトバンクより引用させていただきました。

 

 

 

有田町を見る!

 

◆陶山神社(すえやま じんじゃ)

 

神社の境内にJR佐世保線の踏切があり、電車が走り、大鳥居や狛犬、灯篭や大水瓶など境内に置かれた多くのものが、有田焼の磁器でつくられている神社として知られる陶山神社(すえやまじんじゃ)は、有田町にあります。テレビでよく紹介されるので、皆さん見たことがあるかもしれませんね。陶山神社(とうざん じんじゃ)とも呼ばれるので、陶山神社(とうざん じんじゃ)のほうが記憶にあるかもしれませんね。陶山神社は、主神を応仁天皇として江戸時代万治(まんじ)元年(1658年)に「有田皿山宗廟八幡宮」として建立され、明治4年に同八幡宮のある陶山に因み、陶山神社と命名されています。明治時代中期から、有田焼の始祖である李参平を奉ろうという声が高まり、大正時代の終わりに、鍋島直茂公を祭神に、李参平公を記念碑に奉っています。陶山神社は、有田焼に携わる作家・職人さん・商人、有田町民など多くの有田焼を愛する人々から崇敬され、やきものの神様として親しまれております。境内にある大鳥居や狛犬、大水瓶、玉垣など全て有田焼の職人さんによって磁器でつくられています。その技術水準の高さが解りますね。有田町・有田町の人々はいいですね。有田焼の創業にかかわった鍋島直茂公・李参平公をいつまでも忘れず、やきものの神様として現在でも崇敬して親しんでいる。地域と人々の心のやさしさが伝わってきます。

 

●アクセス

波佐見有田ICより車で10分

JR上有田駅から徒歩で20分

JR有田駅から車で7分

 

 

◆トンバイ塀のある裏通り

 

 有田町が長い歴史のある磁器の町ということを教えてくれるトンバイ塀は、使用しなくなった登り窯の耐火煉瓦材や、陶片などを赤土で固め作成されています。泉山の大イチョウ付近から大樽の九州陶磁美術館までの裏通りが何故か私たちに、なつかしさや郷愁を感じさせてくれる「トンバイ塀のある裏通り」です。現在も磁器つくりに励む窯元や昔の窯元跡、泉山の採石場跡近くなどでこのトンバイ塀をみることが出来ます。江戸時代から、窯元や陶工・職人さんは人通りの少ない裏通りに工房を兼ねた住まいがあり、仕事場が外から見えないように高いトンバイ塀で工房を囲み、それぞれの技法が他に漏れないようにして、技法を守ろうとしていたといいます。

 

●アクセス

西九州自動車道波佐見有田ICより車で10分

JR上有田駅から徒歩で10分ほど

JR有田駅から車で5分ほど

 

 

 

◆泉山磁石場(いずみやま じせきば)

 

17世紀の初め1616年(元和2年)に日本で初めて、朝鮮人陶工・李参平(初代金ケ江三兵衛さん)により発見された磁器の原料となる磁石(じせき)の採掘場です。ここから日本の磁器がつくられるようになった磁器発祥の地として、1980年(昭和55年)に国の史跡に指定されています。現在採石は行われず、熊本県の天草陶石(あまくさ とうせき)が主に使われています。泉山磁石場から古伊万里を含めて有田焼がつくられ、江戸時代にはヨーロッパなど海外へ盛んに輸出され、ドイツのマイセンなどの磁器の先駆けとなり、明治時代の初期にはやはり輸出で国の財政を支えています。この泉山磁石場の前に立ち、迫力ある景観を見ていると多くの工人さんが汗水たらして懸命に磁石を掘る姿が浮かんできて、もしこの泉山磁石場が無かったら有田焼は存在しなかったのでは?と思うと、泉山磁石場さん・李参平(初代金ケ江三兵衛)さん有難うと自然に頭が下がります。

 

●アクセス

西九州自動車道波佐見有田ICより車で10分

JR上有田駅から徒歩で15分ほど

JR有田駅から車で10分ほど

 

 

 

天草陶石とは

 

熊本県天草諸島のうちで最も大きい下島(しもじま)で採掘される良質な陶石です。17世紀末から採掘され、現在陶磁器や高圧碍子などの製作に使用されています。天草石(あまくさいし)ともよばれています。

 

 

 

有田町とMEISSEN マイセン市(ドイツ)

 

有田町とドイツドイツ連邦共和国のマイセン市では、有田町は日本を代表する磁器産地、マイセン市はヨーロッパで最高級磁器のブランド「MEISSENマイセン」の所在地というご縁で姉妹都市契約を1972年に結んでいます。相互に訪問団の交流や青少年有効使節団の交互派遣、記念事業なども数多く開催されています。Qualitaの上質な仏具を焼成している、中仙窯の中尾恭純さん英純さんは、有田町・ドイツ連邦共和国マイセン市姉妹都市提携記念「ドイツ有田工芸展」などに度々出品しています。

 

 

 

詩碑「有田皿山(ありた さらやま)にて」

 

最後に、島崎藤村とともに明治時代・日本象徴詩先駆者として知られるの「蒲原有明(かんばら ありあけ)」さんの詩碑「有田皿山(ありた さらやま)にて」を紹介せていただきまして、有田焼(伊万里)の歴史についての拙文を閉じさせていただきます。この詩は、「有田内山重要伝統的建造物群」の一つに指定されている「有田陶磁美術館」の陶板に設置されています。

 

奈良茶碗堆(うずたか)く、

 

鉢、小壺、犇(ひし)めけるそが中に花瓶(はながめ)は驕(おご)り艶(つや)めき、

 

酒圷(しゅはい)ハつつましく笑み、

 

おのがじし適(かな)える姿、白玉の磁器の膚(はだ)に染み匂ひ、

 

物をやおもふ、丹(に)の色の歓楽の夢、哀愁の呉須の唐草。

 

静もれるその生命をば愛(め)でつつも、われや感(かま)けし、

 

いつしかに、胸にも迫る寂しさの拂ひがたなき。

 

「有田里山にて」より

 

有明書籍『カラー日本のやきもの3有田』 永竹 威 著 ・ 山口 睦男 撮影 ㈱淡交社 のなかで、著者の永竹 威さんは、この詩についてつぎのように述べています。「ある意味において、この文学碑は、肥前皿山に眠る、今はなき無名陶工の慰霊碑ともいえよう。私は、全国にまれなこの染付の文学碑の前で、有明の詩を口ずさみ、皿山の来し方をかえりみ、行く方を見守り続ける。」

 

 

 

有田焼・伊万里焼×Qualita

 

有田焼を代表する工房のひとつ中仙窯では、有田らしいキリリとしたモダンでシャープな磁器の仏具を制作している伝統工芸士:中尾恭純氏と中尾英純氏がQualitaの仏具を手掛けています。

 

伊万里焼を代表する工房のひとつであり、歴史ある鍋島藩の御用窯である鍋島焼「虎仙窯」の伊万里・有田焼伝統工芸士(上絵付け):青木妙子氏がQualitaの仏具を手掛けています。

 

 

 

有田焼伝統工芸士:【中仙窯】中尾恭純・中尾英純

 

Qualita our partners:中仙窯を詳しく見る

 

 

 

伊万里焼伝統工芸士:【虎仙窯】青木妙子

 

Qualita our partners:虎仙窯を詳しく見る

 

 

 

参考文献 

 

●『古伊万里 磁器のパラダイス』青柳恵介 荒川正明 新潮社

●『増補新装 カラー版 日本のやきもの史』監修 矢部良明 執筆 荒川正明 伊藤嘉章 岡佳子 金子賢治 唐沢昌宏 齊藤孝正 佐々木秀憲 美術出版社

●『日本のやきもの④有田・九谷』永竹 威 今泉元佑 嶋崎丞 講談社

●『カラー日本のやきもの3有田』永竹 威 山口睦男 撮影 淡交社

●『NHK やきもの探訪1』構成 元井美智子 藤平 伸 今泉今右衛門 加藤清之 加藤卓男 鯉江良二 森 陶岳 小川待子 鈴木 蔵 風媒社

●『伝統工芸を継ぐ男たち』関根由子 写真 山下三千夫 論創社

 

 

 

WEBサイト

 

●伝統工芸 青山スクエア

●有田町公式ホームページ有田観光協会 ありたさんぽ

●伊万里市公式ホームページ

●伊万里市観光協会

●秘陶の里大川内山 伊万里鍋島焼共同組合

●MEISSEN 日本公式サイト

●歴史的に見た日本の人口と家族

第三特別調査室 縄田康光

国立国会図書館デジタルコレクション

立法と調査2006.10 No.260

●文化庁 広報誌 ぶんかる アートダイヤリー

●色鍋島 今右衛門公式サイト

●柿右衛門公式サイト

●日本遺産ポータルサイト(文化庁)

●コトバンク

その他、新聞、雑誌等の記事を参考にさせていただきました。有難うございました。

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